連載 ほろにがの群像 朝日麦酒の宣伝文化とその時代

第17回 京の夜、ネオン煌めくほろにが君

 濱田研吾 

朝日麦酒の宣伝文化をめぐるあれこれを書いてきたが、紙媒体(ポスター、新聞・雑誌広告、PR誌『ほろにが通信』)と放送媒体(ラジオCM、ラジオドラマ)の話をひとまずおいて、今回は屋外のネオンサインについて書く。

屋外のネオンサインは、企業広告の重要な媒体のひとつだが、風雨にさらされるため長持ちせず、大型なので現物が保存されることは少ない。 たとえ写真で残っても、広告史や広告デザインの研究対象になることは稀で、ネオンサインだけを集めた写真集や研究書は多くない (戦前のネオンだと、ゆまに書房『コレクション・モダン都市文化21モダン都市の電飾』、戦後だと、彰国社『建築写真文庫75・看板と広告塔』が写真集として充実している)。

企業のネオンサインは、今もなお夜景を彩っているが、昭和初期から戦争前までと、昭和20年代半ばから30年代が隆盛期で、この時代はユニークなデザインのものが多くつくられた。 戦前の「新聞広告奨励賞」から続く「広告電通賞」(昭和23年制定)には、ネオンサインや広告塔を対象にした屋外広告部門がつくられ、メーカーが大枚をはたいて建設した意欲的なネオンサインが審査対象となった。

昭和28年度の屋外広告電通賞には、東京・銀座5丁目の不二越ビル屋上に設置された、森永製菓「森永ミルクキャラメル」の地球儀ネオン(*1)が選ばれた。 当時の額で3000万をかけた大掛かりなネオンサインで、使用した鋼材は50トン。一企業のネオンサインの枠をこえ、銀座のシンボル、東京の戦後復興のシンボルとなり、昭和58年に解体されるまで長く親しまれた。

画像:森永製菓「森永ミルクキャラメル」ネオンサイン

*1 森永製菓「森永ミルクキャラメル」ネオンサイン(『建築写真文庫75・看板と広告塔』彰国社/昭和33年8月)

翌々年の昭和30年度には、銀座4丁目南西角の双鳩ビル屋上に設置された、松下電器「ナショナルテレビ」の星型ネオン(*2)が屋外広告電通賞を受けた。 このネオンサインは、森永の地球儀ネオンに対抗して建設されたもので、河野鷹思らデザイナー指名によるコンペを実施。のちにアサヒビールのカートンボックスを手がける伊藤憲治のデザイン案が採用された。 デザイン性に優れているだけではなく、黛敏郎が時報音楽(のちに騒音苦情のため中止)を作曲するなど斬新な仕掛けが施され、森永の地球儀とともに、銀座の夜を照らす代表的なネオンサインとなる。

画像:松下電器「ナショナルテレビ」ネオンサイン

*2 松下電器「ナショナルテレビ」ネオンサイン(『宣伝 第42号』綜合宣伝社/昭和29年8月)

森永の地球儀ネオンと、松下の星型ネオンに広告界の注目が集まるなか、昭和29年度の屋外広告電通賞には、朝日麦酒のネオンサインが輝いた。 京都・河原町四条のビヤホール「ニュー・トーキョー」に設置されたもので、デザインのモチーフは、イメージキャラクターの「ほろにが君」。 森永・松下の両ネオンにくらべると知られていないが、朝日麦酒の宣伝文化の充実ぶりを物語る快挙と書いていい。

画像:朝日麦酒「ほろにが君」ネオンサイン

*3 朝日麦酒「ほろにが君」ネオンサイン(『きょうと 第4号』昭和31年7月)

京都有数の繁華街である河原町に設置されたほろにが君ネオンは、高山続がデザイン、千代田ネオン株式会社が製作した。 写真(*3・4)を見るとわかるように、大小さまざまなほろにが君が順番に点滅することで、遠くから歩いてくるような演出が施されている。 デザインを手がけた高山続は、画家、挿絵画家、装幀家として活動。昭和20年代の子ども雑誌『少年少女の廣場』(新世界社)に表紙画や挿絵を描いたほか、 内田百間著『頬白先生』(コバルト社/昭和21年9月 *5)や戸田みち子著『少女小説・乙女と湖』(日昭館書店/昭和24年9月 *6)などの装幀を手がけている。 また、広告デザインの仕事もこなし、『宣伝』(綜合宣伝社)の表紙デザインを手がけたほか、同誌掲載「広告月評」にも寄稿している。 くわしい略歴はわからないが、高山の活動時期からみて、雑誌編集者で、朝日麦酒と関係の深い飯沢匡となんらかの関係があったとも考えられる。

画像:「ほろにが君」ネオンサインの貴重なカラー写真

*4 「ほろにが君」ネオンサインの貴重なカラー写真(『1954年度版・広告電通賞年紀』電通/昭和30年6月)

画像:内田百間著『頬白先生』

*5 内田百間著『頬白先生』(コバルト社/昭和21年9月/高山続装幀)

画像:戸田みち子著『少女小説・乙女と湖』

*6 戸田みち子著『少女小説・乙女と湖』(日昭館書店/昭和24年9月/高山続装幀)

朝日麦酒は、ほろにが君ネオンだけではなく、前身の大日本麦酒時代からネオンサインに力を入れていた。 有名なものとしては、大阪・難波の戎橋たもとにあった南海食堂のネオンサイン(*7)、朝日麦酒の東京本社が入居する京橋・第一相互館のネオンサイン(*8)、 吾妻橋の東京工場のネオンサイン(*9)が目立っていた。吾妻橋のネオンサインについて、枝川公一はこんな一文を書いている。

画像:南海食堂「アサヒビール」ネオンサイン

*7 南海食堂「アサヒビール」ネオンサイン(戦前撮影/『昭和の大阪・郷愁のあの街この街』アーカイブス出版/平成19年3月)

画像:「ほろにが君」ネオンサインの貴重なカラー写真

*8 京橋・第一相互館。建物の上部左側に「アサヒビール」のネオンサインがある(『第一相互館物語』第一生命保険相互会社/昭和46年10月)

画像:吾妻橋のたもとでデート中のほろにが君と三ツ矢嬢。

*9 吾妻橋のたもとでデート中のほろにが君と三ツ矢嬢。夜の隅田川に吾妻橋工場のネオンサインが輝く(『ほろにが通信 第13号』昭和26年9月)

《家の近くの玉の井駅から、東武電車に乗る。業平橋駅を過ぎて、電車は隅田川の鉄橋にさしかかる。左の窓から、川の東岸にアサヒビールの大きなネオンが見える。 このときに湧いてくるのは、これから繁華な浅草に行くんだなという、あの胸ふくらむ暖い思いだった。(略)ビール工場のネオンサインは、ぼくのなかでは、浅草行きの喜びと結び合っている》 「街の記憶・記憶の街」『建築の忘れがたみ・INAXブックレットVOL.5No.4』(INAX/昭和60年12月)

 

枝川の文章にあるとおり、昭和20、30年代は、企業のネオンサインが町のランドマークになることが多かった。 先述した森永製菓と松下電器の銀座ネオンサイン、浅草の仁丹塔(*10)、日本コロムビア川崎工場のネオンサイン(*11)、大阪・戎橋のグリコのネオンサインは、その代表例といえる。 ほろにが君ネオンも、京都河原町のランドマーク的存在となり、タウン雑誌『きょうと 第4号』(昭和31年7月)には、「全国的に評判の“ビールを飲むネオンサイン”」としてグラビア掲載されている。

画像:森下仁丹「仁丹塔」

*10 森下仁丹「仁丹塔」(『建築写真文庫75・看板と広告塔』)

画像:日本コロムビア川崎工場ネオンサイン

*11 日本コロムビア川崎工場ネオンサイン(ディスカバリーかわさき

ただし、ほろにが君ネオンが、屋外広告電通賞の受賞をすんなり決めたわけではない。まず第1回目の投票では、朝日麦酒「ほろにが君」12票、大同毛織「ミリオンテックス」 (亀倉雄策デザイン/東京駅八重洲口 *12)11票、「雪印バター」「森永キャラメル」各7票、「キャノン」4票、「不二家ミルキー」「サンスター歯磨」「てまり毛糸」各2票との結果が出た。 このように上位2社が1票差だったため、3位以下のネオンサインを落選させ、決選投票を実施。10対8の僅差で、ほろにが君ネオンが栄えある受賞を決めた。 このときの選考について、審査員のひとりだった山名文夫はこう書いている。

画像:大同毛織「ミリオンテックス」ネオンサイン

*12 大同毛織「ミリオンテックス」ネオンサイン(『宣伝 第36号』綜合宣伝社/昭和29年1月)

《アサヒビールのネオンサインで、漫画的効果で興味をそそったものであったが、投票で惜しくも第2位になったミリオンテックスのネオンサインに、私は新しいデザインの魅力を感じた。 (略)光の曲芸のようなスピード感あふれる点滅の変化に、今までにないイマジネーションを受けたのであった。(略)私はこれはわが国の屋外広告に1つのエポックをつくったものであると思う》 『体験的デザイン史』(ダヴィット社/昭和51年2月)

 

この文章からは、遠まわしにほろにが君ネオンを支持していないことがわかる。たしかに、山名が賞賛するミリオンテックスのネオンサインのほうが、デザイン的にはユニークでおもしろい。 ほろにが君ネオンは、平面的で、立体的デザインとしての面白味はあまりない。「朝日麦酒が表現した“漫画的興味”は評価するものの、デザイン的にはいまひとつ」というのが、山名の率直な感想なのだろう。 ミリオンテックスのネオンサインをデザインした亀倉雄策が、グラフィックデザインの世界で大活躍することを考えると、山名は先見の明があったといえる。

いっぽうで、朝日麦酒のほろにが君ネオンを推した声も多かった。雑誌『廣告界』の編集長や中山太陽堂広告部長をつとめた室田庫造は、 《漫画的なデザインを商品に結びつけてその商品への興味という訴及がユーモラスに表現されている点で、もしも許されるなら「新しい動く光画」とでも名づけたい作品》 (「動く光画」『1954年度版・広告電通賞年紀』電通/昭和30年6月)と評価している。

戦後復興とともに起こったネオンサインのデザイン隆盛時代に、朝日麦酒が仲間入りしていたことは、宣伝文化史を語るうえで書きとめておきたい。 しかし、建設コストがかかったのか、「ニュー・トーキョー」のほかに、ほろにが君ネオンが存在したのかどうか定かではない。 屋外広告電通賞の受賞は快挙であったが、社史の『Asahi100』と『アサヒビール宣伝外史』にもなぜか言及されていなかった。

風雨にさらされ、傷みの激しい屋外ネオンサインなので、京の夜を照らしたほろにが君も、昭和30年代には姿を消したと思われる(河原町の「ニュー・トーキョ-」も現在は閉店)。 『広告電通賞年紀』に掲載された貴重なカラー写真をふくめ、写真に残ったことだけがせめてもの救いである。

つづく

プロフィール
濱田研吾(はまだ・けんご)
ライター。昭和49年、大阪府交野市生まれ。
日本の放送史・俳優史・広告文化史をおもに探求。
著書に
徳川夢声と出会った』(晶文社)、
『脇役本・ふるほんに読むバイプレーヤーたち(書籍詳細へ)』(右文書院)。
三國一朗の世界・あるマルチ放送タレントの昭和史』(清流出版)。
注記
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